内藤廣『建築の難問—新しい凡庸さのために』
“普通”の次は“凡庸”。誰からの推薦もなく、自然と自ら手に取る本には、自身の潜在意識が現れる。
数ある難問の中から、近代化について少し考えたい。同書の節見出しには、「モダニズムという問題」とある。
建築家でもない自分が「モダニズム」を定義するなど甚だしい。「モダニズム=近代化」と解釈し、近代化のアイデアを共有せずに書き進める。
いまの近代化
1990年生まれは少し特殊だ。昭和から平成という元号の過渡期に生まれ、バブル崩壊で、事実上の好経済が幕を下ろし、明るい将来への希望が絶たれたタイミングでこの世に生を受けた世代。いつの時代にも、年上と年下から受ける印象の違いはあるだろう。だが、それらは自分たちから見た違いの比ではないと思う。
言うなれば1990年は1つの近代化が終わり、新しい近代化が始まった年でもある。
1990年以降から始まった近代化には大きく分けて2つのパターンがある。1990年前からある近代化、要するに戦後の近代化を拡張していくパターン。もう1つが、それまでの近代化を考え直し、再構築しようとするパターン。都市化主義と地方化主義と言い換えても良いかもしれない。3・11まではどちらかというと都市化主義寄り、以降は地方化主義寄りな社会情勢だ。
自分はどちらかといえば前者の近代化への憧れが強い。
地方化主義が社会的に台頭する、世間的に注目される時代ではあるが、都市化主義で動く資本からすると地方化主義で動く資本は微々たるもの。資本・質量両方の観点から都市建築は強い存在である。強い存在であるが故に人々への影響力は大きい。資本主義者にとって都市化とは成功の証だ。
自己矛盾なのだが、都市化への憧れがある一方で、一個人とては地方化主義を体現しようとしている自分がいる。凡庸に惹かれるのも、おそらく無意識に体現方法を模索しているためだ。
都市開発な近代化は間違いだったか?
いつの時点で答えるかで正解は変わってくるとが、建設した超大型建造物の撤去に頭を悩ませる時は来るだろう。すでに訪れているかもしれない。
基本的に資本主義経済は数年~数十年先のことまでしか考えない。50年先の未来はどうでもいい。一番欲しいのは今の利益である。資産価値が下がる前ないし下がり始めたら建築物は売ってしまうのが合理的だ。最終的には誰かしらが廃墟を所有し、損をする仕組みになっている。
では地方主義近代化はどうすれば良いか?
「持ち家は資産になります。」
35年ローンを夫婦へ売る銀行員定番の口説き文句。(最近は不動産価格高騰のため35年返済が組めず、50年ローンを組む人たちが増えているらしい。)
冷静に考えてみたい。周りを見渡して欲しい。35年他人が住んだ家を見つけ、それを欲しいと思うか想像する。その家に対していくら払える? 格安で買い取ってリノベーションするか、更地に戻して新居を建てるぐらいしか頭に浮かばないだろう。
35年住んだ家など大抵の場合、大した資産にはなり得ない。店舗も然りである。
パルテノン神殿、法隆寺を聞いて、「建築は半永久的に存在するもの」と意識の中に刷り込まれてしまいがちだ。しかし、そうではない。それは理想であるけれど、現実ではない。
建築は生まれ変わり行くもの。
このことを忘れてはいけない。