Zac Fukuda

岡倉覚三『茶の本』

本のタイトルは『茶の湯』でなければ、『茶道』でもない。英文で書かれた原題が『Book of Tea』であることから『茶の本』と訳すのは当然である。邦題を『茶経』としなかった点については、著者の弟・岡倉由三郎によるはしがきで、陸羽の書『茶経』との誤解を生みかねないことを懸念してと触れられている。

しかし、原題を『Book of Tea』としたのは、いささか理解し難い。普通に考えれば『The Way of Tea』、『Tea in East』などに落ち着く。本文の一章は『人情の碗』であり、方法は違うけれど、茶を嗜む文化は東西共通、人類共通である点に着目されている。あえて『Book of Tea』としたのは、あまり東国色、アジア色を出したくない著者の心情を伺える。加えて、『Book of Tea』という曖昧な題は、本の解釈を読者に譲るという、故意に何かを仕上げておかず、想像の働きにこれを完成される「不完全」性を表していると言えなくもない。

本書は本屋に足を運び、何かおもしろ本はないかと探しいるときに見つけた。茶に惹かれたのは、間違いなく、先日に読んだ隈研吾の著『日本の建築』が理由である。日本建築は茶室、数寄屋造りから多くの影響を受け、今日に至った。茶への理解は建築への理解を深め、芸術への理解も深めてくれる。そんなことを期待した。

「数寄屋」の原義は「好き家」と「空き家」である。

「好き家」という名は、個人の趣に適する家という意が含まれている。現代的な言い方をするのではれば、オーダーメイド、注文住宅である。元来、日本では新婚夫婦には新築を用意するのが通例であったらしい。そして、家長が亡くなれば、その家を引き払うのが通例。宮が歴代遷宮方式を取っていたことや、皇居が歴代交代毎に移り変わることからも、人は独立した家を持つべきであるという思想が窺える。一見、消費主義な印象を抱いてしまうが、実際はその逆。事前に家の寿命を見越しているため、造りは簡素に、解体された時には廃材を再利用できるよう工夫されていたに違いない。

日本人であれば、茶の湯が禅から派生していること、影響を受けていることを想像するのは容易い。「空き家」という言葉は、不要な装飾はせず、簡素清浄を目的とすることからおこったものである。しかし、ただ簡素を実現すればよい訳ではない。例えばだが、春先、客人を招く時に生け花を部屋に飾るとする。当然ながら部屋の装飾は、野原から採られ、客人に季節の美的感情を与える花の存在を妨げてはならない。一方で、その花の存在—それも四季折々のそれ—を一層際立たせる設計はしておかなければならない。

つまりところ茶室の極意は「必要を知り最良を心得る」ことである。